花の名前を知る喜び、知る悲しみ

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近頃、健康を気使い、社会的な関わりは断絶したままではあるが、よく外に出るようになった。人の少ない時間に河川敷や田畑で散歩や軽いジョギングをすると心身の調子がすこぶるよい。

晴れた日は心地の良い風を目を閉じて感じ、小雨の日は薄暗い静かな世界をゆったりとした気分で味わう。独りで自然と対話をしていると「『人の幸せ』、なんていう物は本当に身近にあるものだ」と改めて思う。ただ現代社会の原動力である「欲」をかき立てる仕組みに触れてしまえば、すぐに些細な贅沢を忘れてしまうのは困った物ではあるが。

自然との遊び方に慣れてくると、いろいろな贅沢が見えてくる。鳥を眺めたり、木の枝が風に揺れるのを見ながら、瞑想したり、虫を軽くつついてみたりと。そして、そんなたくさんの楽しみの中に「知らない花の名前を調べる」というものがある。

知らない花の名前を知ると、漠然とした「花」としか認識していなかった花が、具体的な「花」として認識されるようになり、その「花」を見る度に親しみを感じ少し幸せな気分になってくる。例えて言うなら、漠然とした「人」が友人や恋人になるといった具合に似ているのかも知れない。

そんな「花の友人を増やす作業」は一見いいことばかりのように思えるが、残念な気分になることもある。それはどういうことかというと、花の名前を見つけたはいいが、その花が「特定外来生物」に指定されている場合である。これはすごく残念な、そして複雑な気分になる。人の比喩を引き続き使うのであれば、いい奴だと思っていた奴が不法入国者や逃亡中の容疑者だったりする感じだろうか。

花の名前を調べ始めてから特定外来種がいかに自分の日常に溢れているかに気づかされる。近所の河川敷だと下手をすれば数十メートルにもわたって特定外来種が”綺麗な花を”咲かしていたりする。調べる前はただの「花」だったものが、特定外来種と認識するとすごく目に付くし、それを見る度に残念な気分になってくる。しかし、日本の在来種が外来種に負けず群生なんかを形成していると少しホっとしたりもする。

俺に出来る事は今のところあまりないが、動植物を育てるときはきちんと下調べをして固有の生態系に悪影響を及ぼさないよう、自分自身がまず責任を持って行動をすることだろう。小さなことではあるが、しっかりとやっていきたい。このようなブログを書いて一人でも多くの人に現実を知ってもらうことも一つの小さい行動だと思う。

人が住む環境では、人は自然を含む全ての地域を適切に管理するべきだろう。都合の悪い部分だけは自然にお任せというわけにはいかない。「一つ」関わるなら全て責任を持って管理すべきだ。もしそれをする覚悟が人になければ、人は自然と明確な距離を置いて暮らしていかないといけない。

これが虚しい理想論という事は俺が一番よく理解しているつもりだ……

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